本講では、自閉症児の言語(能力特性・評価方法、および指導方法)について概説する。 また、年齢もしくは発達水準として、小学校就学時程度までの自閉症児を主な対象とする。

先日、近代美術館フィルムセンターで、稲垣浩監督の「忘れられた子等」('49)という映画を見る機会があった。終戦後まもない心障学級を舞台にした映画だが、そこに登場していたのは、精巧に乗り物の絵を描き、自動車メーカーのことばかり話している男の子や、自分の席に他の子が座ると、投げ飛ばしてどかしてしまう女の子など、今日でいう自閉症スペクトラムの子どもたちであった。
◆1943年に、カナーによって自閉症が最初に報告されて以来、自閉症研究は大きな展開を見せてきた。「心の理論」や「ミラーニューロン」などの理論・発見は、自閉症を学ぶ者にとって興味深く示唆に富むものである。しかしそれらの知見が、療育の状況をも大きく進展させた来た、とは言い難い。
◆映画の中では、心障学級の担任を突然言い渡された男性教師が、何の知識も技術も持ち合わせずに茫然自失する。その状況は、こと指導技法や指導体制に関するかぎり、今も大きく変わってはいないと思う。本項のテーマである「言語」領域についても、種々の指導法が提唱・実行されて来ているが、絶対的なものはなく、子どもの状況に応じて柔軟にプログラムを立案する、という考え方が主流となっている。
◆それにしても、「言語」は、自閉症児の発達において、とりわけ進捗の困難な領域である。アスペルガー症候群などの一部を除き、ほとんどの自閉症児に言語面(とくに語用的側面)での重篤な障害が認められる。その理由は、自閉症が、言語習得の最要諦である他者との関係性に障害の本質を持つ点にある。言語、とくに話し言葉は、日常生活の中で自然習得されて行くものであり、他者との共鳴性・共感性に欠陥を持つ自閉症児は、先天的に大きなハンディを背負っている。また、自然習得という言語の暗示的性質は、意図的学習にどれほどの効果があるのか、というやっかいな問題を提起する。けれど、「自然」にしていても難しいのであれば、何かを始めなければならない。自閉症児の言語・認知特性を踏まえつつ、初期段階から語連鎖期程度までの指導法の幾つかを紹介して行きたい。
◆映画の最終場面。「ありがとう。ごくろうさま」と労う教頭に、男性教師は「もっと続けさせてください」と頭を下げる。変化の手応えが伴えば、手探りも、継続の動機付けとなる。発達を促して行けるような指導の工夫は、療育者自身のためのものでもある。